新町の歴史    TOPページへ
 町は、昔『羽立』と言ったところで、戸数十五軒ほどしかなく、魚漁を業とし、生魚を売買していたところと言われている。ところが、延寶二年から三年にわたって戸数追々増加し、新町の開設を許されたのである。
 して一町になるまでには、三度にわたってひらかれたもので、はじめは『行間』三十間ずつと言うのであったが、三十間ある屋敷は一町のうちに三分の一で、ほかはそれほどなかった。
 化年間の記録によると、この町は、新町上丁、新町下丁と言ったことがあきらかであり、そのあいだの小路を中小路とも言っている。伝えられるところによると、「、この町は生魚売買の株を免許されていたところであるが、明和八年に萱村町で運上銭を差し上げ、生魚売買の『家督株』をゆるされてから、新町の方は営業差し止めとなり、小魚七種※だけを売ることに限られてしまった。それも店売りだけで、かついで売り歩く駄荷販売も差し止められた。
  ※小魚七種〜白魚・えび・ちか・しらす・はやざっこ・ぐず・小ぶな(但し三寸位より下)
  『土崎港町史』 第七章各町の沿革より   


 丈の地図でも、新町は小路によって二つに分けられているが、小路の名はなく、ただ相染村との境西側の小路から突き出た一角に、『相染村新地』の名が出ている。そこから浜へ道がついている。その新地の位置は新町の下にあたっているものの、いくらか相染村の下にまたがっている。
 化の地図では、新町と相染新田村との境の本町通りのはずれに、境界を示した門が建っている。それは扉を閉めるようなものではなく簡単に柱を組み合わせたものである。この地図には小路の名はないが、嘉永の地図になると、元丈の地図に『相染村新地』と書いてあるところへ行く小路の名が『おとうか小路』と書いてある。それから東側の、相染との境の小路は、『相染界小路』と書いてある。そして新町を二つに割っている西側の小路は、『見通小路』と言い、東側は『櫻小路』名がしるされてある。
 ころで『略図』で見ると、『おとうか小路』が『御稲荷小路』となっており、『相染界小路』が、ただ『小路』としるされてある。『櫻小路』は『石田小路』となり、『見通小路』は、『日除小路』となっている。
 町との境の稲荷小路の角に稲荷神社があることは、元丈の地図にしるされており、嘉永の地図にも略図にも書かれてある。
 町の東裏通りに、葬場があり、神明社の堀から堰の流れが葬場の前を通って新町の裏を、相染の方に延びているのは元丈の地図である。
 永の地図にも、その流れや葬場があきらかにしるされてあり、葬場の北隣に『周圍庵』と名がついている。そして前の堰の流れは、相染界小路まで延びている。  
  『土崎港町史』 より
 
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